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[在宅医療のすすめ] 提言:新しい看取りのかたち
在宅医療のすすめ INDEX 訪問診療とは?
在宅医療とは?
Dr.平野のある一日 医療を取りまく現状分析
 
      提言:新しい看取りのかたち                          
   在宅医療の専門クリニックとして開業し、いままで活動する中で、自分の頭の中ではある考えがまとまりつつある。それは、経験が教えてくれた、自分の知識である。当初、どういう疾患が対象になるか、まったく見当もつかなかった。在宅医療は、外来医療、入院医療に次ぐ「第三の医療」といわれるが、いまだ世の中にこの言葉が浸透していないのも残念ながら、現実である。
   在宅医療をひとことでいうと、「自宅にいながらにして受けられる医療」である。慢性的な疾患(寝たきりの状態、神経難病、ガンの末期)にかかっており、定期的な通院や療養型の入院が必要であるが、そういった医療を受けることが不可能だったり、困難だったりする場合、医師や訪問看護、訪問リハビリを定期的に在宅でおこなってゆく医療のことである。
   これまで3年間の経験を通して私が感じている「在宅医療とは何か?」を以下に簡単にまとめたいと思う。
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1在宅医療に型はない。個に応じた医療である。
   最近よく「在宅医療の仕方を教えてください」、と話しかけられるが、私に聞くのは無駄である。なぜなら、その答えは無いからである。逆に私自身が教えていただきたいぐらいである。
     最適な方法を導き出そうとすれば、答えは多様になるだろう。なかなかご家族が自分の希望の形を表現してくれず、たびたび修正が必要になることもある。しかし一番大切なことは、病気に関連することも含めてだが、ご家庭での患者さんやご家族の気持ちの変化、言動などから「常に何かを感じ取ろうと努力すること」だろうと思う。その声に応じて、医療者は形を変えなくてはならない。
     在宅医療は、個に応じたオーダーメイドの医療であるべきなのだ。
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2在宅医療は、コミュニケーションである。
   在宅医療とは、先にのべたように訪問診療だけでなく、訪問看護、訪問リハビリ、訪問服薬指導、介護などの専門家が、おのおのの責任分野で参加することによって成立している。現在の私の活動範囲においては、これをワンメークでおこなっているケースは珍しい。多くのケースで、複数の団体が参加して在宅医療がおこなわれている。たしかに患者さん一人を守るために、意見の相違が見られることもある。
     私がまだ研修医のころ、よくチーム医療という言葉が使われていたが、実際にはこれがうまく運用されたケースを見たことはなかった。しかし、在宅医療の現場に身をおくと、「チーム医療」という言葉が身にしみる。医療をおこなうには、まず患者さんの生活が成立して、初めて可能となる。当然である。生活の支援といえば、ケアマネージャーを主体とした介護サービス、そして行政があってこそ可能なのだ。このそれぞれの役割が、いかに短時間に情報を共有し、志をひとつにできるか。それが可能になって初めて、在宅医療というハーモニーが奏でられる。
     私はまだ開業したばかりのとき、クリニックにスタッフが一人もいなかったので、かなり寂しい思いをした。私自身の相談相手がいないのである。しかし私自身が「在宅の心得」「在宅の知」を周囲のいろいろな方から教えていただくことにより、現在のクリニックのスタイルが成立した。ドラッカーの言葉に「知識社会において、自己の忠誠を向ける場所は、自分の所属する団体、我々でいえば病院ではなく、自分の専門分野における横のつながり、つまりネットワークであるべきだ」とあった。いままさに、コミュニケーションを超えた「在宅医療のナレッジ(知)」の場(Ba)が形成されつつある。ここに参加するのに特別な資格は必要ないと思う。おのおのの経験をここで活かせれば、誰でも自由に参加できるはずだ、と思う。
 
 
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3 在宅医療は、患者さんとご家族の能力をいかに引き出すかである。
   以前、ある看護ステーションのチーフが話した言葉が思い出される。
  「私たちは、しょせん黒子なんです。ご家族の能力をどれだけ引き出せるかが、ポイントです。あとは家族が困ったときに、どれだけ精神的にも支えていけるかです。」
     たしかに在宅医療は入院による医療よりも、患者さん、ご家族の自己責任が多いと思う。だからといって、ハードな要素が多いのかといえばそんなことはない。よくある光景だが、訪問を開始した頃は坐薬もいれられなかったのに、半年も経過すると喀痰の吸引もふくめ、熱が出た際の対処も完璧にこなすようになることがある。大切なご家族を看取ったあとに、寂しさを感じて介護の道にはいっていく人もおられる。介護という言葉もなかった時代には、家族が家族をみながら日々の暮らしをおくっていたのであろう。そこで感じて得たものが「老い」や「死」であったのだと思う。私は、決して在宅至上主義者ではない。でも、人生の最後の数週間でも、数時間でもいいから同じ屋根の下でぜひ何かを感じとって欲しいと思う。
     いままで私が初めて訪問してから3年を経過してなお、お付き合いしている方もいれば、最短は30分ほどだったケースもある。ただ、どのケースも患者さんとご家族が向かい合い、別れを、つまり「死」を感じることができたと思う。いまの日本でいちばん残念なのは、この人生で重要な経験を感じることなく、死が単なる事象として終わってしまうことだと思う。
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4在宅医療は、あるがままの医療である。
   私の患者さんのなかには、病院を脱走同様に脱けだしてきた患者さんも何名かいた。理由を聞くと、
  「自分は、病気と言うよりも老化だと思う。家で気ままに過ごしたかった。」
  という。病院から自宅に戻したときによく見る光景に、一瞬、生命が輝きだしたかのように元気になることがある。いや、加齢や疾患的に良くなるはずはないのだが、回復したように見えることがある。なぜか?
     私がこの仕事の意義を気づかされたのは、ある患者さんの一言だった。肺気腫をわずらい、さらに腎臓も弱り人工透析の導入が避けられなくなったので入院し、一度導入したのだが、その後透析を拒否して自宅に戻ったKさんの言葉。
  「もう、私はね、痛い思いも屈辱的な思いもしたくないんですよ。このベッドの上でね、好きな音楽でも聞きながら、ゆっくり眠っていたいんです。先生、そういうのは駄目ですかね。」
     その後、奥さんとも話し、自宅での最後を迎えた。
 
     医師としては、何が何でも透析をすすめなくてはいけないのかも知れない。しかし、年齢や今後を考えるとそれが絶対必要なのか、と思うことがある。
     先日は入院の継続のために、気管切開と胃瘻(いろう)の増設をしいられた患者さんがいた。まだ歩くことができて、食事もとれて、呼吸も問題ないのに、である。理由はわからないでもないが、いつまでこの状態でいられるかわからないが、できればこの患者さんの体を傷つけずに診ていきたいと思い、在宅医療を開始した。いま私の患者さんであるが、ご家族も以前同様の生活パターンである。自宅は病院ではないから、パジャマを着ている必要もないし、アルコールなどの嗜好品も、多少は良いのではないだろうか?   そして、ご家族にもできれば通常の生活を、可能なかぎり続けていただきたいと思う。在宅医療は、あるがままの君を、あるがままの暮らしの中で診ていく。これが、醍醐味であるとさえ思う。
 
     1960年代の日本では、まだ自宅で死ぬことがあたりまえだった。当時とくらべると社会構造や家族構成の変化もあり、この状況に戻れるか、また戻すことが正しいのかはわからないが、医療経済的なことをはずして考えたとしても、在宅死は大切な文化であると思う。
 
     私はここに、医療提供者と患者側の、より正しい関係が隠されていると思えてならない。
 
     ポストモダンが叫ばれて久しいが、すでに全員がひとつの価値観で生きることは不可能である。と同時に、死に方に関しても多種多様の価値観が存在するはずである。死は確かに、法の監督の下に置かれるのは、正当性もあり我われ国民にも安心感があたえられる。しかし、制度が優秀すぎることが、逆に死に対する本質を奪い去ってしまったのではないだろうか?
     現在の介護制度も、本来は高齢者の生まれた地域へ、そして家への回帰をうながす目的が本来あったはずである。実際は、その逆に流れが動いている。
 
     新村 拓著『在宅死の時代』にこう書かれている。
 
  「数十年前までは家で最後を迎える人は多く、家族は親族や地域の人たちの協力を得ながら死を看取っていた。病院や施設での死が増えるにしたがい、当然の事ながら看取るための知識や技術が家や地域から失われてゆく事になる。いわゆる看取りの文化の消失である。そうした状況が広がるなかで、再び家で看取るように指示されても家族はとまどってしまう。死が近づいて病人のあえぐような息づかいを耳にするようになると、家族の不安は高まってくる。死が近づけば、家にいたいという病人の意思に反して救急車を呼んでしまい、病院へ送り込むのが一般的である。(中略)現在、推し進められている在宅医療、そして在宅死を考えるとき看取りを含めた家族機能の社会化は不可欠である。看取りの文化を地域医療や福祉を担う人々の協力を得ながら再構築してゆくことは、看取る人の不安をやわらげるだけでなく、看取りにかかわる人への死の準備教育ともなり、その人たちの生に厚みをもたらすことにもなる。さらには人と人のつながりの輪が作られ、安心して暮らせる町づくりを通して地域も活性化される事になる。」
 
     この本、在宅医療の現場に身をおくものとしては、共感する部分が多い。在宅医療は、単なる自宅での往診という意味だけではない、と最近思う日々である。明日は明日で、また別の考えが浮かんでは消えることと思う。「我思う、ゆえに我あり」の境地である。だから、在宅はおもしろいともいえるのだ。
 
     Dr.平野
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